城と石垣を愛でる会♩長野県【烏の濡れ羽色 松本城】 0073

Travel To Nagano(長野県)

とても寒い日が続いてますね(;’∀’)

この当時(2014年)まだ子供が小さかったので
あまり細かくお城を見る事は出来ませんでしたが
烏の濡れ羽色で、とても素敵なお城でした(*‘∀‘)

松本城に関わる人物や背景が続くので

良かったらご覧くださいませ♡

写真だけ見て頂ける方は、
下記目次からどうぞ(*‘∀‘)♩

松本城のあれこれ

豆知識☆松本城≠烏城

松本城の別名は『烏城=からすじょう』ではなく、
『深志城』である☆彡
松本城の公式ホームページで述べられています。
文献上で『烏城』と呼ばれた記述は一切ないそう♩

国宝五天守

松本城
松江城
彦根城
犬山城
姫路城

松本城の場所

松本藩に関わった一族と松本城の歴史

人物から見た歴史

●●●松本藩の歴代藩主(六家二十三代)●●●

石 川氏(1590年~1613年)
小笠原氏(1613年~1617年)
戸 田氏(1617年~1633年、1726年~1869年)
松 平氏(1633年~1638年)
堀 田氏(1638年~1642年)
水 野氏(1642年~1725年)

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現在の松本城の原形は、ほぼ石川氏の時代に
造られたイメージ
があります。
天守・乾子天守・渡櫓・本丸御殿・二の丸御殿
は、石川数正/石川康長の時代に作られました。

小笠原氏が再度返り咲きますが、城下町の整備
と積極的に行いました。

戸田氏は、城北部に武家住宅を広げました。

松平氏は、辰巳附櫓と月見櫓を造りました。

堀田氏は、領内の政治に努めましたが
松本へは足を運んだことは無いそう。

水野氏は、約80年間治めることとなります。
そう言えば、江戸城内での松の廊下で
『松本大変』と呼ばれた刃傷事件を起こした

のが、この水野氏です(;’∀’)
これが無ければ、もう少し長く治めたかも…

戸田氏は再度松本城に戻ってきました。
その後、なんと約140年治めました。

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一番気になる人物は、
石川数正(いしかわかずまさ)です☆彡

松本城は豊臣秀吉側の城だったのですが
この石川数正は、元は徳川家康の家臣でした。

徳川家臣団は、今でいうと脳筋多め(失敬)の
徳川四天王☆が有名ですね♩
(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政らを
指す言葉です)

石川数正の叔父さんは、石川家成です。
三河を統一した徳川家康は、もともとの本拠地で
ある西三河と、新たに治める事となった東三河を
それぞれ旗頭に、石川家成と酒井忠次に任せる
こととなり、両家老と呼ばれていました。

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石川数正が従軍した有名な戦いは、
・姉川の戦い(対 浅井・朝倉)
・三方ヶ原の戦い(対 武田信玄)
・長篠の戦い(対 武田勝頼)
が挙げられます☆彡

この様に、徳川家臣団の中でも有望株であった
にも関わらず石川数正は、小牧・長久手の戦いの
翌年、豊臣秀吉側へ出奔してしまいます

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調べてみると、徳川家康の長男である
松平信康の切腹が深く関係しているという話が
あります。

松平信康と武田氏の内通を疑われ、織田信長の命で
切腹をすることとなってしまった悲劇です。

今川の血筋である築山殿と結婚した徳川家康
との間に出来た長男で、彼は織田信長の娘である徳姫
と結婚
することになります。

その後、徳姫が織田信長に向けて
松平信康との不和と、姑である築山殿が武田勝頼と
内通している(謀反の疑い)という手紙を出し
大問題となっている所、酒井忠次が全てを事実と
認めてしまいます

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こりゃー、、、大事件です(;’∀’)
この時、松平信康は二十歳位で嫁である徳姫は
九つ位年下だったので、十歳辺りです。
まだティーンエイジャーにもなってないです。
その年齢で、武田家と内通しているだの
何だのって文書を書けるのか謎ですよね~。

おそらく織田方の手のものによる謀略もしくは
徳川家臣団内の勢力争いに巻き込まれたのかな…

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織田信長としては、松平信康の切腹を命じます。

松平信康への処断に対し、徳川家臣団内でも
反対する意見が多かったものの、重臣の酒井忠次が
事実として認めてしまった為、徳川家康も泣く泣く
切腹を命じたという話です。

酒井忠次、織田信長に対して何も反論せず。
あまり頭の回転が良くなかったのか
逆に切れ者で初めからそのつもりだったのか…
どちらにしても、ちょっと尊敬できないよね(;’∀’)

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石川数正は、なんと松平信康の後見役を務めて
成長を見守ってきたそうです。
石川家の地位向上の為もありますが、おそらく
自分の子どもの成長を見ているかのように頼もしく
信康を見ていたのかなと思います。

徳川家臣団を見てみると、
石川数正を中心とする岡崎衆と
酒井忠次を中心とする浜松衆に分かれていた

との事で、きな臭い感じがしますよね(;´・ω・)

これによって、徳川家臣団内での勢力争いに
巻き込まれた石川数正を豊臣秀吉が引き寄せた
という説が有力かなと思います。

松平信康しかり
結城秀康も…恵まれないよね…

徳川家康は実は有能な実子が居たのに
本当に勿体ないことをしていますよね~

上記の二人と比較して、有能でない実子が
残ったので徳川支配を盤石する仕組み作りには、
かなり頭を悩ませたことでしょう。

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次に気になる人物は、
水野忠恒(みずのただつね)です☆彡

第二の刃傷事件を起こした人物です。
(第一の刃傷事件は、有名な忠臣蔵の赤穂事件)

信濃国松本藩、第六代藩主『水野忠恒』が
長府藩、世子『毛利師就』に斬りつけた事件です。

この水野忠恒は、徳川吉宗に結婚の報告をする
のに江戸城を訪れた際にこの大事件を起こします。
おめでたい報告したのに…何やってんでしょうか。

思うんですけど、藩主なんだから少しは我慢して
欲しいですよね。自分が問題起こしたら部下は
全員浪人ですよ…どうしてくれんの(;’∀’)

侮辱されたりしたなら、頭を使って別の報復を
すれば良かったんだけど、頭に血が上ったのか
もしくは、妄想癖でもあったのかも………

この事件後、水野家は『改易』となります。
改易とは現在で言うとリストラされることです。
武士という身分をはく奪され、領地や屋敷を
没収されてしまうという、重い沙汰
です。

その御家の武士全員が失職してしまうという
恐ろしいことになります。

お城の歴史

枹(ほう)色の城ステキですよね(´艸`*)
黒い城は、豊臣側のお城と言われる事が多いです。

『松本城』の前に『深志城』という
お城があったそう
です。

小笠原氏の本城の『林城』が武田信玄により
『深志城』として拠点にされました。
(1500年代の始め)

そして武田家の滅亡の後、本能寺の変を経て
徳川家康の配下となった小笠原貞慶により
『松本城』と改めました。
(1582年)

お~♩もともとの領地を小笠原氏が取り戻した
ことになるんですね(‘ω’)ノ

豊臣秀吉の時代になると、徳川家康を関東に
移封し、小笠原氏も下総へ移ります。
そして、石川数正が松本城へ入封してきます。
(1590年)

この石川氏親子が、整備して行くこととなります。

私は城主の中で一番気になるのが、この石川数正。
人物から見た歴史内で紹介しましたが、元々は
徳川家臣団トップの家系でしたが、豊臣方へ
出奔した奇異な武将です。

松本城の構造

現存する五重六階の天守の中で
日本最古の国宝の城です。

天守の構造による分類

天守とは、
お城の中心となる場所に建てられた
櫓(見晴らし台、武器庫)建築です。

◆複合式
天守に付櫓を直結するように設けた形式

◆連結式
大天守と小天守を渡櫓または橋台で連結した形式

◆連立式
天守と2基以上の小天守や隅櫓を、
渡櫓で連結して天守曲輪を構成したのが連立式

◆独立式
天守のみ、独立して建てた形式

◆複合連結式←←←(松本城天守はコチラ☆彡)
大天守と小天守を渡櫓または橋台で連結した形式
上記に加えて、
小櫓と月見櫓を連結している複合連結した形式

時代背景によるお城の特徴

◆安土桃山時代(1573年~1603年)

天守の築城年である1593~1594年は
まだ動乱の時代であったので、戦いにむいた
築城をしています

石落(敵の頭上に、この隙間から石を落とす)と
狭間(敵を壁の内側から狙い撃ちするために
開けられた隙間)を持ち、城の壁の厚みは
火縄銃で打たれても貫通しない30センチ程度。

また、窓がない暗い空間である階を設けて
あります。(天守三階)
天守は外側から見ると五重ですが、
内側は六階構造
となっており、天守三階は
外側から認識できない階となっています(‘ω’)ノ

戦の際に、武士が集合する秘められた階と
なっていた様子です(*‘∀‘)

◆江戸時代(1603年~1868年)

寛永時代(1624年~1644年)の間
太平の世になって、辰巳附櫓や月見櫓などは、
増築
されました。

平和な世の中になると、この様な造りに
なってきますよね(*‘∀‘)

徳川家光の訪問を期待しての増築だった様子
ですが、家光が訪れることはありませんでした。

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質実剛健という印象を抱くお城です。
見かけも烏の濡れ羽色で、ステキでした。

黒いお城が好きなのもありますが、周りを囲む
アルプスの白さと雄大さに、黒いお城の姿が
溶け込んでおり、本当に感動しました☆彡

但し、階段はかなり急で段差も幅がかなりあります。
小さい子を連れて登るのは親の手助けが必要
です。

ぽっちゃり体系の娘を、腰の悪いうちのオジサンが
(夫)抱っこしたり持ち上げて登った階段も(;’∀’)
腰の悪いお父さん気を付けて( ;∀;)

石垣は野面積です♩

松本城の写真たち

お堀

お堀の深さはどれくらいなんでしょう?!

松本城を背景に

ちょっと疲れちゃったみたいです(;’∀’)

城周りの石垣

お堀の石垣です。野面積が分かります♩

渋すぎる☆松本城

素晴らしいですね♩烏の濡れ羽色という
言葉がしっくりきます(*‘∀‘)

松本城を正面から

松本城を斜め横から

黒門 一の門

積み方を見てみました♩

黒門 一の門

本丸へ入る重要な入り口。
ここを抜けると、かつては本丸御殿があったそう。

デデーン☆正面より(お堀と反対側)

お堀とは反対側からの正面です。

念願の松本城☆探索開始

いざゆかん♩♩♩

基礎の部分もじっくりと

石垣の積み方面白いですね♩
建物直下の表側、
平たくて薄い石が使われています☆彡

石落しと狭間も見て取れます(‘ω’)

武者出現☆彡

鎧兜の武者と一緒に( ´∀` )
ちゃっかり手をつないで貰っています♡

一階◆入口辺り

おそらく二階

上の階の床☆木組みがしっかりしてますね~♡

おそらく二階

結構角度が急です☆彡
昔の人は小柄ですが、うちのオジサンは終始
身体を小さくして上り下りしておりました(;’∀’)

二階

蕪懸魚(かぶらげぎょ)
火除けの飾りです(*‘∀‘)

天守を外から見た時についている三角の破風と
呼ばれる部分についています。
昭和の修理で取り替えたそうです♩

二階

柱の削り方分かる?!分かるよねぇ?!
(何故か東リベ風で 知らんけど)

釿(ちょうな)という道具を使って柱を
削った跡が分かります(*‘∀‘)

表面を平らにするのは、鉋(かんな)を使うの
ですが、敢えて削り跡を残す技術があります。
(名栗)なぐりと呼ばれる技術です☆彡
くぅ~渋い!!!

多分二階から

山に囲まれているのが分かります。

二階から

屋根の角度もステキよね~☆彡

二階

ここにも
釿(ちょうな)による(名栗)なぐりの技♩

そして、舟形肘木(ふながたひじき)と
呼ばれる技です。
梁をつなぐ際に、継ぎ目を強化する為下から
舟形の木材で補強しています♩

三階は撮り忘れ…

四階

御座所
城主が天守に入った際は、この場所に
座ったらしいです。

五階から

興味津々に覗いています☆彡
武者窓から全方向見渡すことが出来るそうです。
どうやらここの階は、作戦会議室として
機能していた様子です(*‘∀‘)

五階から六階への階段

六階

二十六夜神

戸田氏が祀った月の神様だそうです。
そうそう、明治維新までは日本は太陰暦だった
のですよね~

六階より

天下布武を企んでいる様子(*‘∀‘)
天を仰いでいますwww

瓦も気になる(*‘∀‘)

鬼瓦かわいいです♩
家紋が入っている瓦がありますが、戸田氏の紋しか
確実には分からないな~

おそらく、桐紋なのかな?それは石川氏の紋かも
しれません(‘ω’)ノ

松本藩主家紋は、定紋(表紋)と呼ばれるものと
裏紋と呼ばれる定紋に変えて用いる紋があるそうです

天皇家もしくは、時の権力者から与えられた拝領紋
という紋も存在するらしく、一つの家に数種ありそう
です(*‘∀‘)

オジさんぽ

うちのオジサンが撮ったショット☆彡

おまけ

うさぎをお散歩させているおじいちゃんが
抱っこさせてくれました♡可愛いかった(*‘∀‘)

城下町にて

城下町のお店で、ご自由にお食べ下さいの
きゅうり(‘ω’)が冷やしてあって美味しい♩
(置いてある味噌をつけて食べます☆彡)

これでアナタも松本城マニア(´艸`*)

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いや~子供が小さかったので、細部までじっくり
という訳には行きませんでしたが、大満足の
松本城でした。

長野県の雄大な自然と黒い城
浪漫に溢れていました♡♡♡

歴女ならぬ歴オバさんは大感動♩♩♩

それでは、What was fun for you today?
スイがお送りいたしました。

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