リディア王国以降 → セレウコス朝シリアまで【イスタンブール/Istanbul】中盤 今さら歴史編2 0040

Travel To Turkey(トルコへの旅)

メルハバ!Merhaba!!
スイです♩

トルコの歴史の沼にはまっております♪
本当に、この辺りは複雑で難しい(;’∀’)

リディア王国・アケメネス朝ペルシア・
アレクサンダー大王遠征そして
セレウコス朝シリア・アッタロス朝ペルガモン・
ローマ帝国までを一気にご紹介します(;’∀’)

スイのトルコ覚書|´꒳`)チラ♥︎。

年代ごとに見てみよう(‘ω’)ノ

前7世紀頃~前546年:リディア王国支配下に

フリギュア王国が滅びた後に、
小アジアにリディア王国が誕生し古代オリエントは
リディア王国・エジプト王国・新バビロニア王国・
メディア王国の4国分立時代となる

カッパドキアの領有権で、アケメネス朝ペルシア
との戦いに敗れて消滅

受験生とか、世界史が得意な方だと知ってるかな
リディア王国⇒私は全く知りませんでした(;’∀’)

★★★リディア王国時代の遺跡や展示物★★★

『サルディス遺跡』 ⇒ サルト

前6世紀頃:アケメネス朝ペルシア支配下に

元々は現在のイラン南西部を表していたペルシア
その後、イランの全土を表すこととなった

イラン高原を中心に、メソポタミア・小アジア
(現在のトルコ辺り)・エジプトなど全オリエント
を統一し、およそ200年に渡り統治が続いた

宗教はゾロアスター教(拝火教)を信仰したが
他宗教にも寛容であった

広大な領土を治めるために、官僚制度や交通網を
発達させ、金貨や銀貨も鋳造された
(各州に総督=サトラップをおいた)

2021年9月の記事で、トルコ北部アマスィヤ県で
アケメネス朝時代のものとされる遺物や遺跡を
発掘している様子が書かれておりました(‘ω’)

良く良く考えると、古代ペルシア人はとっても
すごいですよね~☆彡

イラン高原からアケメネス朝ペルシアで大帝国を
作って、その後数百年ののちササン朝ペルシアで
再度大帝国を成すという(*‘∀‘)
時代的には、イスラム化以前のお話♩

紀元前492年から紀元前449年:ペルシア戦争

アケメネス朝ペルシアとアテネやスパルタを
中心としたギリシア都市国家連合の戦い
(この頃トルコは、アケメネス朝ペルシア配下)

ペルシア戦争の引き金は、現在トルコ南西部の
エーゲ海沿いのミレトスを中心とした都市国家が
アケメネス朝ペルシアに反乱を起こした事により
ギリシア都市国家がそれを援助した事が発端

アケメネス朝ペルシアは戦いに敗れるが、
国自体が無くなる訳ではなく、
直接的に滅びるのは【アレクサンダー大王の
東方遠征】によるもの

そうだよね~ギリシアからの移民が多かった
トルコ南西部のエーゲ海沿いって言ったら
当時のトルコって言うより、人種も国家形態
もギリシア寄りの感じですもんねぇ

この後、アテネを盟主とした【デロス同盟】と
スパルタを盟主とした【ペロポネソス同盟】との
勢力争いが起こり【ペロポネソス戦争】が生じる
ことになるんですね~ふむふむ

紀元前334年から紀元前323年:アレクサンダー大王東方遠征

マケドニアの英雄
家庭教師はアリストテレス( ゚Д゚)

アケメネス朝ペルシアを侵略し、続いてエジプト・
メソポタミアを制圧

征服した土地には、アレクサンドリア(都市)を
建設した

アレクサンダー大王の東方遠征で、地中海圏と
小アジア・ペルシャなどの中央アジア圏での
文化の融合が興りヘレニズム文化の発祥となる

バビロンにて32歳で死去

英雄の死後、後継者争い「ディアドコイ戦争」が
起こり、激しい内乱状態となる

のちに、アレクサンダー大王の帝国は
プトレマイオス朝エジプト
セレウコス朝シリア
アンティゴノス朝マケドニア
などの国々へ分裂

生涯で、軍隊を率いた戦争で敗北がないのは
凄いですね(‘ω’)ノ

従う部下も大変よね~ホームシックにも
かかっちゃうよ…もっと早く止めて良かったと
思うんだけど…

インド手前でようやく引き返しましたが、
バビロンで体調を崩し亡くなることとなります
自分でも、こんなに早く亡くなるとは
思っていなかったんだろうと思いますね~

異文化を徹底的には排斥せず、
ペルシア人女性との国際結婚まで、
部下を巻き込んで行っていたので、
ヘレニズム文化も生じやすかったのでしょうか♩

【国際結婚は、☆★☆★☆★単に民族融和の
一環ではないという説があります☆★☆★☆★
森谷公俊
『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1】

植民都市「アレクサンドロス」の建設の影響も
大きいかと思いますが、アレクサンダー大王が
徹底的に相手国文化や外国人を排斥する
人物だったら、ヘレニズム文化は生まれなかった
のかもしれません

紀元前312年から紀元前63年:セレウコス朝シリア支配下に

アレクサンダー大王が亡き後、武将セレウコスが
興した王朝

当初、国土は広範囲に渡っていたが、やはり
統治が難しい土地を多く含んでいたので
大部分を失った後、現在のシリアを中心とした
国土を統治した

シリアと名称に付くと、現在の価値観で
いうとイスラム教国家のイメージが強いですよね♩

でも、セレウコス朝シリアは、ギリシア風の都市を
建設し、ギリシア文化だったのです(*‘∀‘)

ギリシア文化+オリエント文化でヘレニズム文化
ヘレニズム諸国の一つです

後に、ローマ帝国(共和制)の属州となります☆彡

前282年から紀元前133年:アッタロス朝成立(アッタロス朝ペルガモン)

当初は、セレウコス朝シリアに属していたが、
後に独立

後継者争い「ディアドコイ戦争」の後に、
地域統治者を鞍替えし、成り上がった
フィレタウロスがペルガモンの統治者となる

ヘレニズム諸国の一つですが、アッタロス3世
時代に、国土をローマ帝国へ献上

★アッタロス朝ペルガモン時代の遺跡や展示物★

『ペルガモンの大祭壇』 ⇒ ベルリン博物館
『アクロポリス』 ⇒ ペルガモン
『アスクレピオン』⇒ ペルガモン

★★★ヘレニズム時代を始まりとする遺跡★★★

『エフェス』 ⇒ セルチュク
『ペルゲ』 ⇒ ペルゲ
『シデ』 ⇒ シデ
『アスペンドス』 ⇒ アスペンドス

その後ローマ帝国支配下で、更に改良を
加えられていきます(‘ω’)ノ

紀元前133年:ローマ帝国(共和制)支配下に

第2回三頭政治と呼ばれる時代(紀元前43年)、
アウグストゥス帝没(14年)、
ローマ帝国最大領土となり、トルコはほぼ全域
ローマ帝国支配下に入る

★★★★★「ヘレニズム時代」の終焉★★★★★

ローマのエジプト遠征により、ヘレニズム諸国が
ほぼローマの手中に落ちたことによって
終わりとなった(紀元前30年)

ローマ帝国の属州と言えば、アッタロス朝
ペルガモンが出てきましたね(‘ω’)
ローマから総督が来て、住民から税金を徴収
するイメージで統治していきました

カルタゴと戦った【ポエニ戦争】後に、
調子に乗ったローマ帝国は、ギリシア都市へと
触手を伸ばし、結局はマケドニアや小アジアを
支配下に収めていくんですね~☆彡

★★ローマ帝国時代の遺跡や展示物★★

『トラヤヌス神殿』 ⇒ ペルガモン
『ヒエラポリス遺跡』 ⇒ パムッカレ

『シデ』 ⇒ シデ
『アスペンドス』 ⇒ アスペンドス
『ペルゲ』 ⇒ ペルゲ
『エフェス』 ⇒ セルチュク

『カッパドキアの洞窟教会』 ⇒ カッパドキア
(キリスト教の迫害の時代)

ヘレニズム時代の遺跡と被っている箇所も
ありますね(´艸`*)

これは、元々ヘレニズム時代に栄えた都市に
ローマイムズを移植したのでしょう♩

ローマ文化もギリシャ文化を色濃く残して
いますからね☆彡

トラヤヌスさんはローマ帝国五賢のお一人♩
【パクス=ロマーナ】(ローマによる平和)
と呼ばれるローマ帝国最盛期、各地にローマ風
都市が建設されました(*‘∀‘)

アウグストゥス(オクタウィアヌス)が
ローマ帝国皇帝に即位した紀元前27年から
五賢帝の五番目マルクス・アウレリウスが
死去した紀元180年までを表します☆彡

★☆★☆★☆★ 五賢帝 ☆★☆★☆★☆

1ネルウァ
2トラヤヌス
3ハドリアヌス
4アントニヌス・ピウス
5マルクス・アウレリウス・アントニヌス

考えてみると、トラヤヌスもしくは、
ハドリアヌスの名がついたものが多く遺って
いる印象がありますね(´艸`*)

★☆★☆ちなみに、アウグストゥスが即位した
紀元27年で、ローマ帝国は、共和制から帝政に移行
することとなりました ★☆★☆

五賢帝は、世襲制では無かったので、優秀な人材が
確保出来たんでしょうね(‘ω’)ノ
しかし紀元3世紀に入ると、ゲルマン人やササン朝
ペルシアに侵入・各地の軍人が勝手に皇帝を擁立・
属州の自立、最終的に共同皇帝制と副帝による
分割統治を実施し、分裂していきます☆彡

トルコや、中東辺りには
ヘレニズム文化⇒⇒⇒⇒ローマ文化
の流れを組む遺跡が多い
ので、
何となく頭に入れておくと、実際見たときに
感慨深いでしょうね♡

今回もありがとう(´艸`*)
Teşekkür ederim

それでは、What was fun for you today?
スイがお送りいたしました♩

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